北京展
貞香会書展第四十回記念 第二回 北京書法展覧(2005年)
月刊「書道」編集人 麻生泰久
貞香会(創立者中村素堂)では、1949年に第1回展を小石川・伝通院にて開催し、途中休催を挿みながらも今年第40回を迎え、1月31日~2月5日まで東京都美術館で記念の貞香書展を開催した。貞香会の創立は、1923年と第1回展開催よりずっと早いが、その間、祭墨会や貞香書道研究会を開催するなど書展開催に向けての準備がなされた。
貞香会創立者の中村素堂は、一九〇一年静岡に生まれる。早くからかなを小野鵞堂に漢字を西川春洞門下の7福人といわれた1人の武田霞洞について学び、1933年説文研究の会、同34年「三楽書道会」の創立に関わるなどの活動を見せる傍ら、泰東書道院常務委員、謙慎書道会審査員を務め、その存在は光彩を放っていた。また、戦後は、何故か、戦前の泰東書道院の流れとは反対の東方書道会系の流れを伝える東方書道院に所属したが、学究肌であったためにアカデミックな傾向が強く、又、そうした関係者も居た東方書道院に関与していくことになったのではなかろうか。また、大正大学教授として長年後進を育成したため、その徳を慕って貞香会には大正大学出身者が多い。その他、歌人としても1949年宮中歌会始で選歌となっている。
今回の中国展は、1999年に「中村素堂生誕百年記念貞香会北京書法展」に次ぐもので、その年は恰も中華人民共和国建国50周年・日中文化交流友好條約締結20周年の年に当り、正に時宜を得た催しとなって、真の日中文化交流の意義あらしめた。
そういう意味では、今回の、日本の大正大学と北京師範大学学生との交流展の併催は、次代に継ぐ若い人の文化交流として、誠に有意義な企画であった。
さて、この度の第2回北京展は、3月21日から28日まで北京・中国美術館に於て貞香会、中国書法家協会中央国家機関分会、文物出版社主宰のもと開催された。開会は既になされていたが、3月26日午前10時から快晴の中、中国美術館会場入口にて開幕式が華やかに行われた。開会式は日本側司会大野宜白氏、中国側司会氏、通訳孔令敬氏によって進行され、初めに中国側出席者の全国政治協商委員会副主孫孚凌氏、中華詩詞協会会長孫軼青氏、中国書法家協会顧問劉藝氏、同・氏、同協会常任副主席・中央国家機関書法分会会長張飆氏、中国美術館長馮遠氏、同副館長楊炳遠氏、中国芸術新聞社長・中国書法家協会副秘書長張虎氏、中国文聯弁公室主任・中央国家機関書法家協会分会羅楊氏、同・干曙光氏の紹介があり、次いで日本側、貞香会理事長中村素岳氏、同副理事長赤平泰処氏、同・荒木大樹氏、北京展実行委員長大野宜白氏、同展副実行委員松本宜響氏、同・鈴木得処氏、貞香会特別顧問・毎日書道会専務理事寺田健一氏、同・書道評論家田宮文平氏、同・毎日新聞社学芸部文芸委員荒井魏氏、同・書道編集長麻生泰久が紹介された。引き続き張飆氏、中村素岳氏、氏の今展開催の意義についての挨拶が述べられ、中国側、孫孚凌氏、孫軼青氏、馮遠氏、張虎氏、日本側、中村素岳氏、寺田健一氏、田宮文平氏、麻生泰久によって開幕式のテープカットが行われた。日本から各日程で参加した会員もこの日には中国美術館に参集し、開会式は盛大の裡に終了した。
今回は、書法検討会が企画されており、当日2時から中国美術館7階で開催された。司会は、干曙光氏、通訳は劉書明氏によって進められ、先ず最初に中国文物局文物出版社社長氏が、「詩歌、書法、絵画、学問の第1人者」と題して啓功氏の人となりを克明に浮き彫りにし、続いて、大正大学教授赤平泰処氏が、「文人中村素堂」を多方面から解明したが、共に師という身近なところからと、一方では、客観的に文人という共通項で2人の人間性を捉えた。次いで中国人民大学徐悲鴻芸術学院長鄭暁華氏が、「主旋律のもとに多様で兼容」と題し、中国の書の現況を詳さに解析され、引き続き書評論家田宮文平氏によって「日本の書の未来」について深い考察が行われた。こうした両国による検討会によって、書という共通の文化を通して、同根から出ながらも異なる発展をとげたことの違いを理解することにより、両国を更に深く知ることになることを参加者は認識したのではなかろうか。最後に4人の見解を雑駁ながら麻生が纏めて検討会は終了した。
同夜7時から王府飯店において、オープニングセレモニーの出席者の外、中国側関係者、会員2百余名の参会によって祝賀会が催されたが、松本宜響の日本語、中国語を交えた名司会振りによって会は一気に和やかさを増して夜が更けるまで日中の交流が深められた。
このように日本と中国の交流展を見る度に思うのだが、現在の日本の書が、展覧会書という特殊な事情の中での発展を示しているのに対して、中国の書は、各人各様のスタイルを堅持して、実に個性的であることを痛感する。この両国の書の在り様は、例え実情がどうであれ、深く考えさせられる問題として心に残った。今回の貞香会北京展が、こうした問題に対して一考する機会となるならば、今展を開催した意義は大きいといえよう。
余談になるが、中国美術館では、折りしも館内蔵品の任伯年、呉昌碩、斉白石、黄濱虹展が開催されており、しかもかなりの優品ばかりで、思わず眼福を得た。任伯年の作品について、今回多くの格調ある作品に触れたが、品格において、或いは呉昌碩の上を行くのではないか、との認識を持ったことであった。
出品作品
日本側 | 中国側 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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中村素堂誕辰百年紀念 第一回貞香会書法展・北京展(1999年)
・慶祝日中文化交流友好条約締結二十五周年
月刊「書道」編集人 麻生泰久
貞香会では、会の創立者中村素堂の生誕百年を記念して、「貞香会書法展・北京展」を平成11年8月21日から26日まで中国北京市・中国美術館に於いて貞香会・中国書法家協会中央国家機関分会主催、同協会外聯部、日本大使館の後援によって開催した。正確には中村素堂の生誕百年は、平成12年に当る訳だが、今年は折しも中華人民共和国建国50周年と日中文化交流友好条約締結25周年紀念に当り、この好機に貞香会の諸条件が重なって開催されたもの。
貞香会創立者中村素堂は、1902年信州上田に生まれるが、本籍は静岡。開成中学から東京外語大学で英文学を専攻、鉄道省文書課に入り翻訳の仕事に従事。文書課の隣室に西川春洞の七福神の一人武田霞洞が居たことによって入門。また、素堂は歌を詠むため小野鵞堂に就いてかなを学習するが、2年足らずで小野鵞堂の逝去に遭う。歌といえば、戦後、1949年「若草」の御題の時選歌に入る。この年から選歌の作者は宮中に招かれるようになり、その第一期生である。
因みにその時の選歌は
「やすらかに土よりもゆる若草をふめはしたしもひのぬくみあり」
1921年から2年間東京帝国大学文学部聴講生となり中国文学、古文書学を学ぶ。1923年貞香会創立。1927年「祭墨会」を開催するが、これは素堂独自の創案になるもので書に携わるものの感謝祭のようなもの。祭式は神式によるもので亡くなる1982年まで開催される。素堂はキリスト教、仏教に通じ、妙心寺管長間宮英宗師に8年間師事、また、戦後は増上寺椎尾辨匡師にも教えを受け禅宗、浄土宗に関心を寄せた。このことによって大正大学生から浄土禅宗大本山という渾名を奉られた。
一方書歴としては、1934年「三楽書道会」創立に加わり理事審査員、同年泰東書道院常務委員、同39年理事。同48年埼玉書道人連盟創設会長、毎日書道展創設と同時に審査員。1958東方書道展同人、審査員。1969年大正大学教授、同73年大正大学名誉教授。1982年毎日書道会文化功労賞受賞。同年7月永眠。
こうした履歴の中村素堂に学んだ一門の貞香会は、先年機構を改めて若返りを計った。今回の北京展は長谷川耕心理事長を頭に中村素岳、赤平泰処、荒木大樹、大野宜白(実行委員長)、鈴木得処、松本宜響といった若い執行部の人々によって運営されたもので、展覧会場の中国美術館や祝賀会場の人民大会堂大庁の設営交渉など見事な手腕を発揮、貞香会の新しい力の抬等を目の当たりにしたことであった。
開幕式出席者の先生方
中央在中国日本大使館公使吉澤裕先生
8月21日、午前十時から中国美術館で開幕式が行われたが、式には日本側からは在中国日本大使館公使吉澤裕氏、特別顧問として参加した淑徳大学教授西林昭一氏、書道評論家田宮文平氏、毎日新聞社学芸部中安裕規氏、月刊「書道」誌編集長麻生泰久、貞香会理事長長谷川耕心を始め、この日のために参加した会員180名と中国側からは、全国政協副主席趙南起氏、全国政協常委・国家文物筌定委員会主任・全国書協名誉主席啓功氏、中国人民対外友好協会会長劉徳有氏、全国政協委員・国家文物筌定委員副主任史樹青氏、中国書協副主席・中央国家机関分会会長氏、中国書協副主席季鐸氏、中国書協秘書長謝雲氏、中国芸術報社社長謙総編幹・中国書協副秘書長張虎氏、文化部統戦部蔡秀?氏、同統戦部韓燕氏等の出席のうち、司会蘇士樹、大野宜白の両氏、通訳孔令明、劉書明の両氏によって開幕式が進められた。
開幕式
司会:日本側大野宜白(中央)
中国側蘇士樹(中央左)
まず、来賓の紹介があり中国側主催者の挨拶として中国書法協会中央国家機関分会主席氏による歓迎の辞と書展開催の意義が述べられ、日本側主催者として貞香会理事長長谷川耕心氏の中国における書展開催の主目的が述べられた。続いて来賓祝辞があり、中国側は中国人民友好協会会長劉徳有氏が流暢な日本語で、貞香会と中国の20年に亘る交流があって、今回初めての書展が行われたことを、そして文化交流を通して心の交流をしたいと述べた。続いて日本側は淑徳大学教授・書学書道史学会理事長西林昭一氏が貞香会創始者中村素堂が篆・隷・楷・行・草・かなの総てに通暁していたこと、仏教学の造詣に深かったことを紹介してテープカットに移った。中国側からは前記中国側出席者、日本側からは在中国日本大使館公使吉澤裕氏、前記長谷川耕心、前記特別顧問西林昭一氏、特別顧問美術評論家田宮文平氏、等によって賑やかなテープカットが行われ、八日間の書法展が開幕した。
テープカット
啓功先生、吉澤裕先生ほか
会場には、中村素堂氏の六体の書6点、会員作161点を中国側からは中国書協の重鎮啓功、沈鵬、、劉炳森、劉藝、張虎氏等27氏の作品が出品されたが、この作品は、今回のために態々為書きを入れた新作27点である。こうして会場内は日中の書の競演という趣を呈していた。テープカットの後、自由参観に移り、会員が三々五々会場を廻る内に中国側の出品者、氏、張有清氏、谷渓氏が来場し、お互いに忌憚のない意見を開陳しあって有益な一時を過ごした。
人民大会堂三楼大庁での祝賀会
夕刻6時からは人民大会堂三楼大庁で祝賀会が開催され、日本側からは中村素堂氏遺族の中村幸子、同美晴氏、開幕式に出席した人々、中国側からは、国家文物局局長張文彬氏、故宮博物院常務副院長宋滅如氏、全国政協委員・国家文物筌定委員会副主任史樹青氏、中国書協中央国家机関分会名誉会長孫軼青氏、中国書協副主席中央国家机関分会会長氏、中国書協副主席季鐸氏、中国美術館常務副館長楊力舟氏、中国書協秘書長謝雲氏、中国書協副秘書長・中国芸術報社社長兼総編幹張虎氏、文化部統戦部蔡秀?氏、統戦部韓燕氏、同秦潤波氏、中国書協中央国家分会常務副主席兼秘書長鄒徳忠氏、中国書法協会外聯部副主任白煦氏等が出席。
宴会は松本宜響氏の司会により進められ、長谷川理事長の挨拶に続き長文彬氏、季鐸氏の熱のこもった挨拶があり、吉澤裕公使の流暢な中国語と日本語による一人二役の挨拶があり、氏の乾杯の音頭によって宴は開かれた。
会も酣になって長谷川耕心理事長が得意ののどを披露し、「オーソレミオ」を唄うとヤンヤの喝采でアンコールがかかり、今度は荒木大樹夫人憲子さんと「マンマ」の二部合唱でアンコールに応えた。
書道人多といえども人民大会堂で唄った書家は長谷川耕心を以って嚆矢とするのではないだろうか。楽しい一刻もあっという間に過ぎてしまったが、会員一同充実した気分の内にホテルへ帰投した。
翌22日は、午前中寸暇を割いて西林昭一、田宮文平、中安宏規、長谷川耕心夫妻の各氏と連れ立って歴史博物館へ。歴史博物館では開催中の中国文物事業50年展(1949~1999)と中濱碩堂氏に勧められた青州龍興寺発掘の仏像展を拝観したが、殊にこの催しは印象深く、顔の美麗さと官能的な体は中国の北魏から北斉時代の特徴を見せており、人間的で初めて見るこの石仏群の姿は感動的であった。
正午、今回の展覧会で特にお世話になった啓功、、史樹青、蘇士樹の各氏を囲んでの宴が設けられたが、貞香会からは長谷川耕心理事長、特別顧問の西林昭一、田宮文平、中安宏規、麻生泰久の各氏、中村素岳、赤平泰処、荒木大樹、大野宜白、鈴木得処、松本宜響の各氏と通訳の劉書明氏が出席、中国側の人々の労をねぎらった。
竹園における
お世話になった中国の人々への感謝の会
中央 啓功先生
この北京貴賓楼飯店の14階にある会場の「竹園」は、名前の通り部屋の造は総て竹の細工が施してあり、天井も竹の絵ならカーテン、柱まで竹模様の柄、極め付けは奥の正面壁面一杯に啓功氏の四季の竹図大作4枚が嵌め込まれていて圧巻であった。史樹青氏によれば啓功氏の竹の葉は勢いよく上を向いているが、これは湖州竹派の特徴であり、啓功氏はその派の優れた伝承者であるという。この湖州竹派は、北宋の文同を開祖とし、様式的には草書の筆法を絵に応用しているのが特徴。基本構図は根元から梢までを描き、全株の竹に石を配して瀟洒な雅趣を特色としている。
この竹園で出された12品目の料理も特別なら什器がまた特別で、玉の器もあり総てに堪能した一刻であったが、お別れに当って啓功氏より自著「古代字體論稿」が、日本側出席者にお土産として渡された。
こうして短い間に中国側の人々と書に話し合って得たことは、
(1) | 日本の書は師風遵守の弊があると思っていたが、貞香会のように個性を大切にする会があることを認識した。 |
(2) | 貞香会の作風には篆書に独自の研究が窺われ、隷書には伝統の手法の上に自己が表現されている。 |
(3) | 日本の仮名の連綿については草書の勉強に大いに役立つ。 |
(4) | 日本の書は大体において早書である。早書きが悪いというのではないが、緩急の呼吸が欲しい。(このことについては国民性の違いにも大いに関係があることを鄒徳忠と同意見をみてお互いに納得。 |
(5) | 現代書については、古典を勉強した上での現代書に向うのは賛成だが、いきなり基礎を疎かにして現代書を指向するのは如何かと思う。など、中国の現状についても危惧するといった意見を伺った。 |
さて、帰国前夜は北海公園内の?膳飯荘で中国宮廷料理に舌皷をうったが、ホテルに帰投してからは役目を終えた開放感もあって斉藤彰氏が日本から態々持参した日本ビールを我々中安、麻生の部屋に持参頂き、田宮氏も加わって、昼間フリーマーケット、古玩城で麻生が仕入れた駄物を肴にお互いの薀蓄を傾けて厚い品評会。折り悪しくというか、運良くというか、所用で立ち寄った赤平泰処氏を強引に引きずり込み、無理に飲ませて珍玩を見せてどうだと意見の強要。西漢時代のふくろうの掘出し物だというのに赤平泰処飲んだ手前一言なかるべけんやと思えども、目を白黒させて達磨さんを決め込むのみ。まだ仕事がありますからとホウホウの体で無銭飲食のトンずらに、こらあー金を置いていけ!とは誰も云わなかった。解放感に皆云いたい放題の酔心地を楽しむ内に、静かに北京の夜は更けていった。
23日、愈々帰国の日になった。午前中故宮博物院での特別展鑑の要請が叶って、石鼓文の原石と漱芳斎において董其昌、倪元?、黄道周、王鐸、鄭谷口の軸物の大幅拝観、眼福を得たことであった。
それにしても今回の貞香会書法展・北京展は日中両国の書を相互理解すると共に新しい文化交流の在り方を探るよい機会となったのではないだろうか。
月刊雑誌「書道」第45巻」10月号より転載
出品作品
日本側 | 中国側 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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