洗碑会
第18回 洗碑会
平成25年5月 於 小石川・伝通院
中村素堂先生のお誕生日にあたる五月二日、小石川伝通院にて第18回洗碑会が行われた。素堂先生のご親族、弟子、孫弟子、大正大学書道研究部の現役部員など、所縁の二十六名が参加し、全員での読経、貞香会会長赤平泰処先生はじめ代表者による洗碑と進んだ。
今年は貞香会創立九十周年、翌々年には貞香書展が第五十回を迎える。引き継がれてきた時の流れを純化して浮かび上がるものは、やはり生きた素堂先生を知る人々の師への思いであろう。
見えない人とゆるやかにつながれた世界で、膨大だが軽薄な情報に埋もれる検索時代に身を置いていると見失いそうになるが、筆が紙に入り込んでいくその音を感じ、その書きぶりを目の当たりにし、その気迫に身震いした者にしか分かり得ない領域は厳然と存在し続けている。
「聞」は実に多義的で幅がある。「わたくしは、このようにききました」という身体表現に浴するいま、生きた素堂先生を知らない我々のなかに、素堂先生が生きてくる実感がある。
翌年は三十三回忌。是非新たな参加者も加えて、共に「如是我聞」碑の向こう側に新しい何かをみたい。(大屋泰穹)
今年は貞香会創立九十周年、翌々年には貞香書展が第五十回を迎える。引き継がれてきた時の流れを純化して浮かび上がるものは、やはり生きた素堂先生を知る人々の師への思いであろう。
見えない人とゆるやかにつながれた世界で、膨大だが軽薄な情報に埋もれる検索時代に身を置いていると見失いそうになるが、筆が紙に入り込んでいくその音を感じ、その書きぶりを目の当たりにし、その気迫に身震いした者にしか分かり得ない領域は厳然と存在し続けている。
「聞」は実に多義的で幅がある。「わたくしは、このようにききました」という身体表現に浴するいま、生きた素堂先生を知らない我々のなかに、素堂先生が生きてくる実感がある。
翌年は三十三回忌。是非新たな参加者も加えて、共に「如是我聞」碑の向こう側に新しい何かをみたい。(大屋泰穹)